未熟さを受け入れる。
私は、驕り高ぶること、あたかも自分は完全無欠な人間かのように振る舞うことを好みません。
私は、未熟さを大切にしたいのです。 そして、未熟さを受け入れることをもっと大切にしていきたいのです。 なぜなら、未熟さを受け入れることで人は成長していけるものだと考えているからです。
もし、今の自分を未熟だと捉えることが出来なければどうなるでしょうか。
もう自分は完全なものだと思い込んでいるわけですから、成長する余地など残されているはずもありません。
あとは相手が本心で言っているかもわからない賞賛の言葉を鵜呑みにしては、どんどん完全無欠な自分像を肥大化させていくだけです。 仮に、相手が本心で賞賛してくれたとしても、それは相手の中でその人に対する像が大きいものになっただけであり、自分自身が成長しているわけではありません。
勘違いしてはいけないのです。
また、未熟さを受け入れるということは、自己否定するということだと思います。 これは今の自分の能力を一度否定しなければならないので、心理的苦痛を伴うこともあります。
しかし、それが出来てこそ謙虚な姿勢で人と向き合ったり、新しい知識を得ようと行動を起こすことが出来るのだと私は思います。 どんなに年齢を重ねようが、経験を積もうが、未熟であることに変わりはありません。 なぜなら、世の中には自分の知らないことの方が圧倒的に多いからです。
もし、それでもどこかで自分の有能さに浸ることがあるとすれば、それはとても狭いコミュニティの中での自分像に満足しているに過ぎません。 それでは現状以上のことを成し遂げることはできません。
果たしてそれでいいのでしょうか。 それぞれの好みの問題でもありますが、少なくとも、私個人としてはそんな姿勢ではいけないのです。なぜなら、成長しなければ死あるのみ、だからです。
「革新によって人々の生活をより良くする」という理念を掲げ、CallConnectという自社サービスによって導入企業のビジネスを成長させることを目指す以上、未熟さを受け入れて、日々成長していかなければ目指す場所にたどり着けるはずもありません。
また、何のために、未熟さを受け入れるかが重要です。 それは、自分を甘やかすためでも、開き直るためでもありません。 冷静に今の自分を見つめ、成長の糧にするためです。 より良い自分になるために受け入れるのです。
経験を積めば積むほど、評価されればされるほど、意識せずとも余計なプライドを持ってしまいます。 気づかないところでそういったプライドが、謙虚な姿勢でいることを難しくし、成長を阻む原因になっていくのです。
そういったことを避けるためにも、私はあえて一度自己否定してみること、未熟さを受け入れることを大切にしていきたいと強く感じています。
自分の未熟さを受け入れてこそ、成長できるのだと私は信じています。